12月20日(土)に西田幾多郎記念哲学館に行ってきました。今回は「善の研究」読書会への参加で、内容は西田幾多郎『善の研究』第三編第七章「倫理学の諸説その三」です。金沢大学の山本英輔教授が進行をしてくれる読書会で、西田哲学の難解な言葉をできるだけ平易でやさしく解説してくれるという親切なところが気に入っています。また各回の最後には参加者からの質問や感想などともきちんと対応してくれるところも好感が持てます。
西田幾多郎の「善の研究」を読む
2025年度寸心読書会

この読書会は、講師として金沢大学の山本英輔教授が本文を読みながら解説するというスタイルで進行をしてくれるので初学者にもわかりやすいと評判です。

本日は小春日和、快晴です。気温が20℃以上もあり、12月としては異常なくらい暖かい日でした。

空気も澄んでいて散歩するにも絶好ですね。
今回は「善の研究:倫理学の諸説その三」
西田幾多郎『善の研究』
以下の内容は青空文庫の文章をいくつかの部分にわけて、それぞれに生成AI(今回はChatGPT5.2を使いました)で解説を入れたものです。あくまで自分の学習用ですが、ここに備忘録として残しておきます。
前回の読書会の様子はこれです

以下は今回の内容です。
定義(この章を読むための最低限の言葉)
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他律的倫理学:自分の外(神、国家、権力、慣習など)から「善をしなさい」と命じられるタイプの道徳論です。
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自律的倫理学:人間の内側(理性、感情、意志など)に「善の根拠」を探すタイプの道徳論です。
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合理説(主知説):理性で真理を知れば、それがそのまま善になり、何をすべきかも分かるはずだ、という立場です。
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快楽説:苦痛を避け快を求める感情が善悪の土台だ、という立場です。
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活動説:意志の働き(行為する力)を中心に善を考える立場です。
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「ある」と「ねばならぬ」:事実(is)から義務(ought)はそのまま出ない、という論点です。西田はここを強く突きます。
要点(西田がこの箇所で言っていること)
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外から命令される道徳(他律)だと、「なぜ善をしなければならないか」が最後まで説明できない
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そこで人間の内側(人性)に根拠を探す自律倫理へ移る
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まず合理説(理性中心)を紹介し、その強み(普遍性・義務の威厳)を認める
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しかし合理説には致命的な弱点がある
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事実を知っても、それだけで価値判断(適不適・善悪)は出ない
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理屈の判断と、意志が動くことは別物(知っていてもやらない)
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合理説を徹底すると、犬儒派・ストア派のように「欲を消すこと」しか残らず、積極的な善の中身が空っぽになる
出典
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原文は『善の研究』西田幾多郎(青空文庫テキスト)に基づきます。
善の研究_西田幾多郎_あおぞら文庫
比較(この場面の見取り図)
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合理説(主知説):理性が中心。善=真理に従うこと。強みは普遍性。弱みは動機が薄い(頭で分かっても身体が動かない)。
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直覚説:善悪を直感でつかむ。合理説と混同されがちだが、直覚は理性だけに限らない、と西田は言います。
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快楽説:感情(快・不快)が中心。
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活動説:意志・行為の力が中心。
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合理説の実行型(犬儒派・ストア派):欲を敵にして、欲を消す方向へ行きがち。結果として「善の中身」が痩せる。
原文+解説(段落ごと)
他律では「なぜ善をせねば」を説明できない/自律へ
他律的倫理学では、上にいったように、どうしても何故に我々は善を為さねばならぬかを説明することができぬ。善は全く無意義の者となるのである。そこで我々は道徳の本を人性の中に求めねばならぬようになってくる。善は如何なる者であるか、何故に善を為さねばならぬかの問題を、人性より説明せねばならぬようになってくる。かくの如き倫理学を自律的倫理学という。これには三種あって、一つは理性を本とする者で合理説または主知説といい、一つは苦楽の感情を本とする者で快楽説といい、また一つは意志の活動を本とする者で活動説という。今先ず合理説より話そう。
解説
外から「やれ」と言われるだけの道徳は、最後に必ず壁に当たります。「なぜ?」と問われた瞬間、命令の根拠が尽きるからです。西田は、善をただの命令にすると、善が空っぽの記号になってしまう、と感じています。だからこそ、人間の内側にあるエンジン(理性・感情・意志)を調べ直す必要がある。ここから話は、自律倫理の三つの道へ分岐しますが、まず理性の道(合理説)から入ります。
合理説とは何か(善=真理、義務は幾何学のように演繹できる)
合理的若しくは主知的倫理学 dianoetic ethics というのは、道徳上の善悪正邪ということと知識上の真偽ということとを同一視している。物の真相が即ち善である、物の真相を知れば自ら何を為さねばならぬかが明あきらかとなる、我々の義務は幾何学的真理の如く演繹(えんえき)しうる者であると考えている。それで我々は何故に善を為さねばならぬかといえば、真理なるが故であるというのである。我々人間は理性を具しておって、知識において理に従わねばならぬように、実行においても理に従わねばならぬのである(ちょっと注意しておくが、理という語には哲学上色々の意味があるが、ここに理というのは普通の意味における抽象的概念の関係をいうのである)。この説は一方においてはホッブスなどのように、道徳法は君主の意志に由りて左右し得る随意的の者であるというに反し、道徳法は物の性質であって、永久不変なることを主張し、また一方では、善悪の本を知覚または感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の一般性を説明することができず、義務の威厳を滅却し、各人の好尚を以て唯一の標準とせねばならぬようになるのを恐れて、理の一般性に基づいて、道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立せんとしたのである。この説は往々前にいった直覚説と混同せらるることが多いが、直覚ということは必ずしも理性の直覚と限るには及ばぬ。この二者は二つに分って考えた方がよいと思う。
解説
合理説は、道徳を「知識問題」にしてしまいます。真理を知れば、善も自動的に分かるはずだ、という気持ちです。たとえるなら、道徳を数学の証明に寄せていく発想です。
この立場の良さは、道徳を個人の好み(好き嫌い)から救い出すところです。「人それぞれ」で道徳が崩れるのを嫌い、理性の普遍性で義務の厳しさを立て直そうとします。
ただし西田は、ここで注意を入れます。合理説は「直覚」と混同されがちだが、直覚は理性に限らない。つまり、直感で分かると言っても、それが論理的に分かることと同一ではない、という整理です。
合理説の代表としてのクラーク(関係は数学のように明確だ、という見立て)
余は合理説の最醇なる者はクラークの説であると考える。氏の考に依れば、凡すべて人事界における物の関係は数理の如く明確なる者で、これに由りて自ら物の適当不適当を知ることができるという。たとえば神は我々より無限に優秀なる者であるから、我々はこれに服従せねばならぬとか、他人が己に施ほどこして不正なる事は自分が他人に為しても不正であるというような訳である。氏はまた何故に人間は善を為さねばならぬかを論じて、合理的動物は理に従わざるべからずといっている。時としては、正義に反して働かんとする者は物の性質を変ぜんと欲するが如き者であるとまでにいって、全く「ある」ということと「あらねばならぬ」ということを混同している。
解説
クラークの道徳観は、社会の関係を「数式のように」扱います。関係がはっきり見えれば、適切・不適切(すべき/すべきでない)が自動的に決まる、と考える。
しかし西田が刺すのは最後の一撃です。クラークは気づかぬうちに、「そうである(事実)」と「そうであるべき(義務)」を混ぜてしまう。
たとえば「神が偉い」から「服従せねばならない」は、途中に価値判断が入っています。事実の記述だけでは、義務の命令には変わらない。西田は、そのジャンプを見逃しません。
合理説への批判その1:形式的理解力は内容(善の中身)を生まない
合理説が道徳法の一般性を明にし、義務を厳粛ならしめんとするは可なれども、これを以て道徳の全豹ぜんぴょうを説き得たるものとなすことはできぬ。論者のいうように、我々の行為を指導する道徳法なる者が、形式的理解力によりて先天的に知りうる者であろうか。純粋なる形式的理解力は論理学のいわゆる思想の三法則という如き、単に形式的理解の法則を与うることはできるが、何らの内容を与うることはできぬ。論者は好んで例を幾何学に取るが、幾何学においても、その公理なる者は単に形式的理解力に由りて、明になったのではなく、空間の性質より来るのである。幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的直覚に、論理法を応用したものである。倫理学においても、已すでに根本原理が明となった上はこれを応用するには、論理の法則に由らねばならぬのであろうが、この原則その者は論理の法則に由って明になったのではない。
解説
ここは、西田の文章が急に鋭利になります。論理(形式)は、箱の形は作れても、中身(価値)を作れない。
幾何学ですら、論理だけで公理が出るのではなく、空間という土台(直観)がある。ならば倫理はなおさらで、論理は「すでに決まった原理を整然と運ぶ道具」にはなるが、「そもそも何が善か」を生む親ではない、というわけです。
つまり、道徳は証明の手順だけでは立ち上がらない。先に、何か生きた基盤が必要だ、と言っています。
合理説への批判その2:「隣人愛」は理解力だけで決まらない/価値判断は欲求が先にある
たとえば汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力に由りて明であるであろうか。我々に他愛の性質もあれば、また自愛の性質もある。然るに何故にその一が優っていて他が劣っているのであろうか、これを定むる者は理解力ではなくして、我々の感情または欲求である。我々は単に知識上に物の真相を知り得たりとしても、これより何が善であるかを知ることはできぬ。かくあるということより、かくあらねばならぬということを知ることはできぬ。クラークは物の真相より適不適を知ることができるというが、適不適ということは已に純粋なる知識上の判断ではなくして、価値的判断である。何か求むる所の者があって、然る後適不適の判断が起ってくるのである。
解説
「隣人を愛せよ」は、理屈だけで自明でしょうか。人間には他人を思う心も、自分を守る心もある。どちらを上に置くかは、論理では決めきれない。決めるのは、心が何を欲しているか、どこに重みを置くかです。
西田の核心はここです。
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事実を知ること(真相を知る)
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価値を決めること(善だと定める)
この二つは別です。適不適の判断は、すでに「何かを求める」という方向性があるから生まれる。方向性のない羅針盤は、どこも北にできない、という感じです。
合理説への批判その3:論理判断は意志を動かさない(知っていてもやらない)
次に論者は何故に我々は善を為さねばならぬかということを説明して、理性的動物なるが故に理に従わねばならぬという。理を解する者は知識上において理に従わねばならぬのは当然である。しかし単に論理的判断という者と意志の選択とは別物である。論理の判断は必ずしも意志の原因とはならぬ。意志は感情または衝動より起るもので、単に抽象的論理より起るものではない。己おのれの欲せざる所人に施す勿なかれという格言も、もし同情という動機がなかったならば、我々に対して殆ど無意義である。もし抽象的論理が直ただちに意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人は即ち最善の人といわねばならぬ。然るに事実は時にこれに反して知ある人よりもかえって無知なる人が一層善人であることは誰も否定することはできない。
解説
この段落は現代人にも刺さります。
「正しいと分かっているのに、できない」
この経験は誰にでもあります。西田はそれを哲学の言葉で言い直しています。論理の判断と、意志の選択は別の部屋に住んでいる。
意志を動かすのは、感情や衝動、つまり身体に近い火です。共感がなければ、「人に嫌なことをするな」という格言は、ただの標語に落ちる。
もし理屈が直接のエンジンなら、頭の良い人ほど聖人になるはずです。しかし現実は違う。ここで西田は、合理説の「動力不足」を暴きます。
合理説の実行型:犬儒学派とストア学派(欲を排し無欲へ)
曩さきには合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークはこの説の理論的方面の代表者であって、実行的方面を代表する者はいわゆる犬儒学派であろう。この派はソクラテースが善と知とを同一視するに基づき、凡ての情欲快楽を悪となし、これに打克かって純理に従うのを唯一の善となした、而しかもそのいわゆる理なる者は単に情欲に反するのみにて、何らの内容なき消極的の理である。道徳の目的は単に情欲快楽に克ちて精神の自由を保つということのみであった。有名なるディオゲネスの如きがその好模範である。その学派の後またストア学派なる者があって、同一の主義を唱道した。ストア学派に従えば、宇宙は唯一の理に由りて支配せらるる者で、人間の本質もこの理性の外にいでぬ、理に従うのは即ち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善である、生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も悪ではない、ただ内心の自由と平静とが最上の善であると考えた。その結果犬儒学派と同じく、凡ての情欲を排斥して単に無欲 Apathie たらんことを務むるようになった。エピクテートの如きはその好例である。
解説
合理説が「行動の哲学」になろうとすると、極端な禁欲へ傾きやすい。犬儒派は、欲や快楽を悪として叩き、欲に勝つことを善の中心に置きます。
しかし西田が気にするのは、「純理」が結局、欲に反対するだけの空っぽな理になってしまうことです。反対はできても、どこへ行くかが語れない。
ストア派も、宇宙の理に従うことを善とし、外的なもの(健康や財産)を善悪から外して、内面の自由と平静を最高に置きます。結果として目標は「無欲(アパテイア)」になる。燃え上がる人生ではなく、風のない湖面のような人生が理想になるわけです。
結論:欲に勝つこと自体が目的になると、善が痩せる
右の学派の如く、全然情欲に反対する純理を以て人性の目的となす時には、理論上においても何らの道徳的動機を与うることができぬように、実行上においても何らの積極的善の内容を与うることはできぬ。シニックスやストアがいったように、単に情欲に打克つということが唯一の善と考うるより外はない。しかし我々が情欲に打克たねばならぬというのは、更に何か大なる目的の求むべき者がある故である。単に情欲を制する為に制するのが善であるといえば、これより不合理なることはあるまい。
解説
欲を抑えるのは、普通は「もっと大事なもの」を守るためです。目的地があるから、寄り道を我慢する。
ところが禁欲そのものが目的になると、地図が消えます。何のために我慢しているのかが空白になる。
西田はここで、道徳の痩せ方を指摘しています。欲を抑えることは必要な場面がある。でも、それは善の全体ではない。抑えた先に、育てるべき何か(積極的な善の中身)がなくてはならない。抑制だけでは、人間の倫理は完成しない、という結びです。
具体例(現代の感覚に置き換えると)
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健康:カロリーや病気の知識(事実)を知っていても、夜更かしや暴食を止められないことがあります。知識はハンドルではなく、地図に近い。動くには感情・習慣・衝動の設計が要ります。
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会社のルール:コンプライアンス研修で正しさを理解しても、現場の空気や焦りが勝つと不正が起きる。理性だけで人は動かない、という西田の指摘そのままです。
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節約:家計簿で「これが無駄」と分かっていても、ストレスが強いと衝動買いする。価値判断と動機は、知識だけでは完結しません。
本日の感想
山本先生が歯医者問題で苦労されたお話がありました。歯が痛い時にすぐに予約をとれないのが歯医者さんですから大変でしたね。少し、ほのぼのとしたトークでいやされました。
歯の「痛み」という知覚の話をされたのは理由がありそうです。
きっと山本先生の歯の痛みの話は、理性だけで人は動かない、意志は感情や衝動に強く引っ張られる、という西田の論点を、身近な体験で一気に分からせるための例だった可能性が高いです。しかも、場を和ませながら、重いテーマ(善の根拠)へ入る扉にもなっています。また、本日の読書会の強い記憶のトリガーになりました。
このあたりのトークのうまさが山本先生のすばらしいところですね。

西田幾多郎記念哲学館は緑が多い施設です。ですが、さすがに12月ともなると葉は落ち枯れ葉となります。この木の最後の一葉」は風に揺れていました。

この記事を書いた遠田幹雄は中小企業診断士です
遠田幹雄は経営コンサルティング企業の株式会社ドモドモコーポレーション代表取締役。石川県かほく市に本社があり金沢市を中心とした北陸三県を主な活動エリアとする経営コンサルタントです。
小規模事業者や中小企業を対象として、経営戦略立案とその後の実行支援、商品開発、販路拡大、マーケティング、ブランド構築等に係る総合的なコンサルティング活動を展開しています。実際にはWEBマーケティングやIT系のご依頼が多いです。
民民での直接契約を中心としていますが、商工三団体などの支援機関が主催するセミナー講師を年間数十回担当したり、支援機関の専門家派遣や中小企業基盤整備機構の経営窓口相談に対応したりもしています。
保有資格:中小企業診断士、情報処理技術者など
会社概要およびプロフィールは株式会社ドモドモコーポレーションの会社案内にて紹介していますので興味ある方はご覧ください。
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