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西田哲学の倫理学、『善の研究』第三編第八章「倫理学の諸説その四」を読む

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西田幾多郎記念哲学館は雪で冬の装いになりました1月24日(土)に西田幾多郎記念哲学館に行ってきました。今回は「善の研究」読書会への参加です。この読書会は金沢大学の山本英輔教授が進行をしてくれます。西田哲学の難解な言葉をできるだけ平易でやさしく解説してくれるという親切なところが気に入っています。また各回の最後には参加者からの質問や感想などともきちんと対応してくれるところも好感が持てます。

西田幾多郎の「善の研究」を読む

2025年度寸心読書会

西田哲学『善の研究』読書会

石川県西田幾多郎記念哲学館

この読書会は、講師として金沢大学の山本英輔教授が本文を読みながら解説するというスタイルで進行をしてくれるので初学者にもわかりやすいと評判です。

西田幾多郎記念哲学館

本日はこの冬最長かつ最強といわれる寒波の影響で、寒い一日でした。参加者もいつもの半分くらいと少なかったです。

今回は「善の研究:倫理学の諸説その四」

西田幾多郎『善の研究』

西田幾多郎 善の研究

前回までの「倫理学の諸説」に関する読書会の様子はこれです

西田哲学の倫理学、『善の研究』第三編第五章「倫理学の諸説その一」を読む
2025年10月18日(土)、西田幾多郎の「善の研究」寸心読書会(哲学読書会)に行ってきました。会場は西田幾多郎記念哲学館の地下ホールです。今回のテーマは西田幾多郎『善の研究』第三編第五章「倫理学の諸説その一」です。この章は西田哲学としては割とやさしい表現だということを講師の金沢大学・山本英輔教授が説明してくれました。それでも西田節ですからやはり難解です。西田幾多郎の「善の研究」を読む2025年度...
西田哲学の倫理学、『善の研究』第三編第六章「倫理学の諸説その二」を読む
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西田哲学の倫理学、『善の研究』第三編第七章「倫理学の諸説その三」を読む
12月20日(土)に西田幾多郎記念哲学館に行ってきました。今回は「善の研究」読書会への参加で、内容は西田幾多郎『善の研究』第三編第七章「倫理学の諸説その三」です。金沢大学の山本英輔教授が進行をしてくれる読書会で、西田哲学の難解な言葉をできるだけ平易でやさしく解説してくれるという親切なところが気に入っています。また各回の最後には参加者からの質問や感想などともきちんと対応してくれるところも好感が持てま...

以下の内容は青空文庫の文章をいくつかの部分にわけて、それぞれに生成AI(今回はGemini3Proを使いました)で解説を入れたものです。あくまで自分の学習用ですが、ここに備忘録として残しておきます。

さて、今回の内容です。

西田幾多郎「善の研究」第八章 倫理学の諸説 その四

善の研究:快楽説とその限界「倫理学の諸説 その四」 ←要約のリンク

定義(この章を読むための最低限の言葉)

  • 合理説:理性(理屈・論理)を軸に「善」を説明しようとする立場です。
  • 快楽説:苦痛を避け快を求める、という感情を軸に「善」を説明しようとする立場です。
  • 利己的快楽説:自分の快楽を最大にするのが善だ、という考えです。
  • 公衆的快楽説(功利説):社会全体の快楽(幸福)を最大にするのが善だ、という考えです。
  • 価値判断:正しい・間違い、という知識の判断ではなく、良い・悪い、望ましい・望ましくない、という重みづけの判断です。
  • 動機:人を実際に動かす力です。頭の理解とは別に、心や衝動が火をつける部分です。

要点(この章で西田が言いたいこと)

  1. 合理説は他律より前進だが、形式的理性だけでは「なぜ善をせねばならぬか」は説明しきれない
  2. そこで人間の意志を見つめると、意志は苦楽に根を持ち、快を求め不快を避けるのが自然だ
  3. この自然な流れから、快楽を基礎に善悪を説明する快楽説が生まれる
  4. 快楽説には利己型(キレーネ学派、エピクロース)と公衆型(ベンサム、ミル)がある
  5. しかし快楽説は「計算できそう」で「計算しにくい」。快楽の尺度は揺れやすく、他人の快楽を混ぜるとさらに難しい
  6. そもそも人間は快楽だけで動いているのか。自己犠牲や理想の実行は、快楽目的では説明しきれない
  7. 快楽説は合理説より人間に近いが、客観的標準と命令性(ねばならぬ)を説明できず、人生の目的を快楽に限定するのは事実に合わない

比較(立場の違いが一目でわかる整理)

  • 合理説:理性で善を立てたい。普遍性は強いが、動機が弱くなりやすい
  • 快楽説:感情に寄り添うので人間の実感に近いが、客観的な物差しと「義務」の硬さが出にくい
  • 利己的快楽説:一貫しているが、結局は自己中心に落ちやすい
  • 公衆的快楽説(功利説):社会の幸福を掲げるが、なぜ自分より多数が上か、理屈が難しい

具体例(現代人の感覚に置き換える)

  • 痛み止めを飲む、病院を探す:理屈よりも苦痛が行動を動かします。快楽説が言う「苦を避ける」が強く働く場面です
  • 推し活や趣味:その瞬間の喜び(瞬間の快)を重んじるとアリスチッポス寄りになります
  • 長期の健康管理:一生の満足、苦痛の少ない状態を重んじるとエピクロース寄りになります
  • 会社の制度設計:多数の満足を最大化しようとするなら功利説の発想ですが、個人の不満が出たときに正当化が難しくなります

「倫理学の諸説その四」原文+解説(段落ごと)

合理説から快楽説へ:意志の根は苦楽にある

原文

 合理説は他律的倫理学に比すれば更に一歩をすすめて、人性自然の中より善を説明せんとする者である。しかし単に形式的理性を本としては、前にいったように、到底何故に善をなさざるべからざるかの根本的問題を説明することはできぬ。そこで我々が深く自己の中に反省して見ると、意志は凡すべて苦楽の感情より生ずるので、快を求め不快を避けるというのが人情の自然で動かすべからざる事実である。我々が表面上全く快楽の為にせざる行為、たとえば身を殺して仁をなすという如き場合にても、その裏面について探って見ると、やはり一種の快楽を求めているのである。意志の目的は畢竟ひっきょう快楽の外になく、我々が快楽を以て人生の目的となすということは更に説明を要しない自明の真理である。それで快楽を以て人性唯一の目的となし、道徳的善悪の区別をもこの原理に由りて説明せんとする倫理学説の起るのは自然の勢である。これを快楽説という。この快楽説には二種あって、一つを利己的快楽説といい、他を公衆的快楽説という。

解説
ここは、西田が議論の重心を「理屈」から「心の動き」へ移す場面です。合理説は確かに他律より前進です。外から命令されるより、自分の内に根拠を探すほうが自然だからです。
しかし西田は、形式だけの理性では最後の一歩が出ない、と見ます。「なぜ善をしなければならないのか」。この問いに、論理の骨組みだけでは血が通わない。そこで西田は、人間の内側を覗き込みます。
すると見えてくるのは、意志が動くときの出発点が「苦楽」だということです。痛いのは嫌、心地よいほうへ行きたい。これは理屈以前の、体温のある事実です。
さらに西田は挑発的に言います。自己犠牲のように見える行為でさえ、裏を探ると「何かの快」を求めているのだ、と。だから人生の目的を快楽と置き、それで善悪まで説明しようとする学説が出てくる。これが快楽説。そして快楽説は、自分中心の型と、公衆中心の型に分かれる、という導入です。
この導入は、後で西田がその前提を切り崩すための助走にもなっています。いったん強く主張して、のちに丁寧に揺さぶる流れです。

利己的快楽説:キレーネ学派とエピクロース

原文

 利己的快楽説とは自己の快楽を以て人生唯一の目的となし、我々が他人の為にするという場合においても、その実は自己の快楽を求めているのであると考え、最大なる自己の快楽が最大の善であるとなすのである。この説の完全なる代表者は希臘ギリシャにおけるキレーネ学派とエピクロースとである。アリスチッポスは肉体的快楽の外に精神的快楽のあることは許したが、快楽はいかなる快楽でも凡て同一の快楽である、ただ大なる快楽が善であると考えた。而しかして氏は凡て積極的快楽を尚とうとび、また一生の快楽よりもむしろ瞬間の快楽を重んじたので、最も純粋なる快楽説の代表者といわねばならぬ。エピクロースはやはり凡ての快楽を以て同一となし、快楽が唯一の善で、如何なる快楽も苦痛の結果を生ぜざる以上は、排斥すべきものにあらずと考えたが、氏は瞬間の快楽よりも一生の快楽を重しとし、積極的快楽よりもむしろ消極的快楽、即ち苦悩なき状態を尚んだ。氏の最大の善というのは心の平和 tranquility of mind ということである。しかし氏の根本主義はどこまでも利己的快楽説であって、希臘人のいわゆる四つの主徳、睿知えいち、節制、勇気、正義という如き者も自己の快楽の手段として必要であるのである。正義ということも、正義其者そのものが価値あるのではなく、各人相犯さずして幸福を享うける手段として必要なのである。この主義は氏の社会的生活に関する意見において最も明あきらかである。社会は自己の利益を得る為に必要なのである。国家は単に個人の安全を謀る為に存在するのである。もし社会的煩累を避けて而も充分なる安全を得ることができるならば、こは大に望むべき所である。氏の主義はむしろ隠遁主義 〔λ※(鋭アクセント付きα、1-11-39)θε βι※[#鋭アクセント付きω、U+1F7D、169-2]σσ※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57)〕 である。氏はこれに由りて、なるべく家族生活をも避けんとした。

解説
西田は利己的快楽説を、かなりフェアに紹介しています。ポイントは二つあります。
1つ目は、他人のために見える行為も、結局は自分の快楽を求めている、と見る徹底ぶりです。見返りが目に見えるかどうかではなく、心の満足や誇りや安心まで含めて「自分の快」と解釈していく。ここまで徹底すると、理論は硬く、美しくまとまります。
2つ目は、同じ快楽説でも性格が違う、という描き分けです。
アリスチッポスは「今この瞬間の積極的な快」を重んじます。熱く、鋭く、瞬間に照準を合わせる快楽です。
一方エピクロースは「苦悩のない状態」という消極的快楽を重んじます。人生全体で見て、心がざわつかないこと、いわば凪のような心の平和が最高の善になる。
そして重要なのが、徳(睿知・節制・勇気・正義)さえも「快楽の手段」として位置づける点です。正義が尊いから正義を守るのではなく、互いに侵さないほうが安心して幸福になれるから正義が必要。国家や社会も、個人の安全のための道具。
この見方を突き詰めると、できれば社会の面倒から距離をとりたい、という隠遁へ傾く。西田はそこまで含めて、利己的快楽説の筋の通り方を描いています。

公衆的快楽説(功利説):ベンサムとその難点

原文

 次に公衆的快楽説、即ちいわゆる功利説について述べよう。この説は根本的主義においては全く前説と同一であるが、ただ個人の快楽を以て最上の善となさず、社会公衆の快楽を以て最上の善となす点において前説と異なっている。この説の完全なる代表者はベンザムである。氏に従えば人生の目的は快楽であって、善は快楽の外にない。而していかなる快楽も同一であって、快楽には種類の差別はない(留針押しの遊の快楽も高尚なる詩歌の快楽も同一である)、ただ大小の数量的差異あるのみである。我々の行為の価値は直覚論者のいうようにその者に価値があるのではなく、全くこれより生ずる結果に由りて定まるのである。即ち大なる快楽を生ずる行為が善行である。而して如何なる行為が最も大なる善行であるかといえば、氏は個人の最大幸福よりも多人数の最大幸福が快楽説の原則よりして道理上一層大なる快楽と考えねばならぬから、最大多数の最大幸福というのが最上の善であるといっている。またベンザムはこの快楽説に由りて、行為の価値を定むる科学的方法をも論じている。氏に従えば、快楽の価値は大抵数量的に定め得る者であって、たとえば強度、長短、確実、不確実等の標準に由りて快楽の計算ができると考えたのである。氏の説は快楽説として実に能よく辻褄つじつまの合った者であるが、ただ一つ何故に個人の最大快楽ではなくて、最大多数の最大幸福が最上の善でなければならぬかの説明が明瞭でない。快楽にはこれを感ずる主観がなければなるまい。感ずる者があればこそ快楽があるのである。而してこの感ずる主というのはいつでも個人でなければならぬ。然らば快楽説の原則よりして何故に個人の快楽よりも多人数の快楽が上に置かれねばならぬのであるか。人間には同情というものがあるから己おのれ独り楽むよりは、人と共に楽んだ方が一層大なる快楽であるかも知れない、ミルなどはこの点に注目している。しかしこの場合においても、この同情より来る快楽は他人の快楽ではなく、自分の快楽である。やはり自己の快楽が唯一の標準であるのである。もし自己の快楽と他人の快楽と相衝突した場合は如何いかん。快楽説の立脚地よりしては、それでも自己の快楽をすてて他人の快楽を求めねばならぬということができるであろうか。エピクロースのように利己主義となるのが、かえって快楽説の必然なる結果であろう。ベンザムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じているが、かかる事は到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う。

解説
功利説は、快楽説を社会設計に持ち込んだ形です。理屈はシンプルです。

  • 善は結果で決まる
  • 大きい快楽を生む行為が善
  • ならば多数の幸福が最大になる行為が最善
    そしてベンサムはさらに野心的で、快楽を計算しようとします。強度、長短、確実性などの指標で、快楽の価値を数量化できる、と。
    西田はここで、功利説の完成度を認めています。辻褄は合っている。しかし致命的な穴がある、と言う。
    その穴は、なぜ個人より多数が上なのか、という一点です。快楽は誰かが感じて初めて快楽になる。感じるのはいつでも個人です。ならば、理論の出発点が個人なのに、結論だけ多数を最上に置くのは飛躍ではないか。
    同情があるから一緒に喜んだ方が快かもしれない、という反論も紹介しますが、西田はさらに切り込みます。それでもその快は「自分の快」だ、と。
    そして最後に難問を突きつけます。自分の快と他人の快が衝突したらどうするのか。快楽説の土台の上で、自分を捨てて他人を取れ、と命令できるのか。むしろ利己主義へ戻るほうが筋ではないか。
    この段落は、功利説の善意を否定するのではなく、理論の根のところで支え切れていない点を指摘している、と読むと分かりやすいです。

快楽説批判その1:快楽が同種なら、優劣の基準が立たない

原文

 これまで一通り快楽説の主なる点をのべたので、これよりその批評に移ろう。先ず快楽説の根本的仮定たる快楽は人生唯一の目的であるということを承認した処で、果して快楽説に由りて充分なる行為の規範を与うることができるであろうか。厳密なる快楽説の立脚地より見れば、快楽は如何なる快楽でも皆同種であって、ただ大小の数量的差異あるのみでなければならぬ。もし快楽に色々の性質的差別があって、これに由りて価値が異なるものであるとするならば、快楽の外に別に価値を定むる原則を許さねばならぬこととなる。即ち快楽が行為の価値を定むる唯一の原則であるという主義と衝突する。ベンザムの後を受けたるミルは快楽に色々性質上の差別あることを許し、二種の快楽の優劣は、この二種を同じく経験し得る人は容易にこれを定めうると考えている。たとえば豕ぶたとなりて満足するよりはソクラテースとなって不満足なることは誰も望む所である。而してこれらの差別は人間の品位の感 sense of dignity より来きたるものと考えている。しかしミルの如き考は明に快楽説の立脚地を離れたもので、快楽説よりいえば一の快楽が他の快楽より小なるに関せず、他の快楽よりも尚き者であるという事は許されない。

解説
ここは、快楽説の内部から快楽説を崩す議論です。
快楽説が厳密であるためには、快楽は全部同種で、違いは量だけ、でなければならない。そうでないと、快楽以外の価値(品位とか尊厳とか)を混ぜることになるからです。
ミルは、人間には高い快楽と低い快楽がある、と言います。ソクラテスとして不満足であるほうが、豚として満足するより良い、と。これは多くの人がうなずく感覚です。
しかし西田は、そこに容赦なく言います。それはもう快楽説から出ている、と。
快楽の量が少なくても、質が高いから価値が高い、という言い方を許した瞬間、快楽以外の基準が立ってしまう。快楽だけで全てを測る、という看板が折れてしまう。
つまりミルの改良は、快楽説を救うために快楽説の外へ出てしまう、という批判です。

快楽説批判その2:数量化(計算)が実際には難しすぎる

原文

 さらばエピクロース、ベンザム諸氏の如く純粋に快楽は同一であってただ数量的に異なるものとして、如何にして快楽の数量的関係を定め、これに由りて行為の価値を定めることができるであろうか。アリスチッポスやエピクロースは単に知識に由りて弁別ができるといっているだけで、明瞭なる標準を与えてはおらぬ。独りベンザムは上にいったようにこの標準を詳論している。併し快楽の感情なる者は一人の人においても、時と場合とに由りて非常に変化し易い物である、一の快楽より他の快楽が強度において勝るかは頗すこぶる明瞭でない。更に如何ほどの強度が如何ほどの継続に相当するかを定むるのは極めて困難である。一人の人においてすらかく快楽の尺度を定むるのは困難であって見れば公衆的快楽説のように他人の快楽をも計算して快楽の大小を定めんとするのは尚更困難である。普通には凡て肉体の快楽より精神の快楽が上であると考えられ、富より名誉が大切で、己一人の快楽より多人数の快楽が尚いなどと、伝説的に快楽の価値が定まっているようであるが、かかる標準は種々なる方面の観察よりできたもので、決して単純なる快楽の大小より定まったものとは思われない。

解説
快楽説が実用的な倫理になるには、快楽の大小を測れないといけません。ところが西田は、そこで現実の泥を持ってきます。
同じ人でも、日や状況で快楽の感じ方は変わる。強いのはどっちか、そもそもはっきりしない。強度と継続を交換する比率も決めにくい。
一人の心の中でさえ難しいのに、他人の快楽まで足して社会全体の計算をするのは、さらに難しい。
私たちは「精神の快楽が上」「名誉が富より大切」「多数が良い」などの序列を持っているけれど、それは単純な快楽量の計算でできたものではない。歴史や文化、教育、経験の積み重ねで形づくられた複合物だ。
つまり「計算可能そう」に見えるが、実際には計算の土台が揺れている、と言っています。

快楽説批判その3:快楽が人生唯一の目的、は事実に合わない

原文

 右は快楽説の根本的原理を正しきものとして論じたのであるが、かくして見ても、快楽説に由りて我々の行為の価値を定むべき正確なる規範を得ることは頗る困難である。今一歩を進めてこの説の根本的原理について考究して見よう。凡て人は快楽を希望し、快楽が人生唯一の目的であるとはこの説の根本的仮定であって、またすべての人のいう所であるが、少しく考えて見ると、その決して真理でないことが明である。人間には利己的快楽の外に、高尚なる他愛的または理想的の欲求のあることは許さねばなるまい。たとえば己の欲を抑えても、愛する者に与えたいとか、自己の身を失っても理想を実行せねばならぬというような考は誰の胸裡きょうりにも多少は潜みおるのである。時あってこれらの動機が非常なる力を現わし来り、人をして思わず悲惨なる犠牲的行為を敢あえてせしむることも少くない。快楽論者のいうように人間が全然自己の快楽を求めているというのは頗すこぶる穿うがち得たる真理のようであるが、かえって事実に遠ざかったものである。勿論快楽論者もこれらの事実を認めないのではないが、人間がこれらの欲望を有しこれが為に犠牲的行為を敢てするのも、つまり自己の欲望を満足せんとするので、裏面より見ればやはり自己の快楽を求むるにすぎないと考えているのである。しかしいかなる人もまたいかなる場合でも欲求の満足を求めているということは事実であるが、欲求の満足を求むる者が即ち快楽を求むる者であるとはいわれない。いかに苦痛多き理想でもこれを実行し得た時には、必ず満足の感情を伴うのである。而してこの感情は一種の快楽には相違ないが、これが為にこの快感が始より行為の目的であったとはいわれまい。かくの如き満足の快感なる者が起るには、先ず我々に自然の欲求という者がなければならぬ。この欲求があればこそ、これを実行して満足の快楽を生ずるのである。然るにこの快感あるが為に、欲求は凡て快楽を目的としているというのは、原因と結果とを混同したものである。我々人間には先天的に他愛の本能がある。これあるが故に、他を愛するということは我々に無限の満足を与うるのである。しかしこれが為に自己の快楽の為に他を愛したのだとはいわれない。毫釐ごうりにても自己の快楽の為にするという考があったならば、決して他愛より来る満足の感情をうることができないのである。啻ただに他愛の欲求ばかりではなく、全く自愛的欲求といわれている者も単に快楽を目的としている者はない。たとえば食色の欲も快楽を目的とするというよりは、かえって一種先天的本能の必然に駆られて起るものである。飢えたる者はかえって食欲のあるを悲み、失恋の人はかえって愛情あるを怨うらむであろう。人間もし快楽が唯一の目的であるならば、人生ほど矛盾に富んだ者はなかろう。むしろ凡て人間の欲求を断ち去った方がかえって快楽を求むるの途である。エピクロースが凡ての欲を脱したる状態、即ち心の平静を以て最上の快楽となし、かえって正反対の原理より出立したストイックの理想と一致したのもこの故である。

解説
西田の本気の反論がここです。快楽説は魅力的に見えますが、前提がそもそも事実と合わない、と言う。
人は快を望む。これは確かです。しかし「唯一の目的」かと言われると違う。人には他愛や理想がある。愛する人に与えたい、理想のために自分を削ってもやり抜きたい。そうした動機が強烈に現れて、犠牲的な行為に至ることがある。
快楽説はこう反論します。それでも欲求の満足があるのだから結局は自己の快だ、と。
ここで西田は、論点をずらして切り返します。

  • 欲求が満たされると満足(快のようなもの)が起こる
    これは事実です。
    しかし
  • だから最初から快を目的にしていた
    とは言えない。
    満足という快感が生まれるには、先に自然な欲求がある。欲求が原因で、快感は結果。快感があるから欲求の目的は快楽だ、というのは原因と結果の混同だ、と言います。
    さらに深いのは他愛の話です。もし最初から「自分が気持ちよくなるために愛そう」と思っていたら、他愛から生まれる純粋な満足は得られない、と。ここは心理の真実に近い指摘です。
    食欲や性欲も、快のためというより、本能の必然として湧いてくる。だから人間の欲求は、快楽一点で整然とは説明できない。
    そして皮肉な帰結が出ます。もし快が唯一の目的なら、欲を断ったほうが楽になるはずで、エピクロースの心の平静はストア派の理想と重なる。快楽説が最後に禁欲へ寄っていく構図を、西田はここで哲学的に説明しています。

補強反論への反論:習慣が第二の天性、で全ては説明できない

原文

 しかし或快楽論者では、我々が今日快楽を目的としない自然の欲求であると思うている者でも、個人の一生または生物進化の経過において、習慣に由りて第二の天性となったので、元は意識的に快楽を求めた者が無意識となったのであると論じている。即ち快楽を目的とせざる自然の欲求というのは、つまり快楽を得る手段であったのが、習慣に由って目的其者となったというのである(ミルなどはこれについてよく金銭の例を引いている)。成程我々の欲求の中には此かくの如き心理的作用に由って第二の天性となった者もあるであろう。しかし快楽を目的とせざる欲求は尽ことごとくかかる過程に由りて生じたものとはいわれない。我々の精神はその身体と同じく生れながらにして活動的である。種々の本能をもっている。鶏の子が生れながら籾もみを拾い、鶩あひるの子が生れながら水に入るのも同理である。これらの本能と称すべき者が果して遺伝に由って、元来意識的であった者が無意識的習慣となったのであろうか。今日の生物進化の説に由れば、生物の本能は決してかかる過程に由って出来たものではない。元来生物の卵において具有した能力であって、事情に適する者が生存して遂に一種特有なる本能を発揮するに至ったのである。

解説
快楽説側の追加の工夫がここです。
いま私たちが「快楽目的じゃない」と思っている欲求も、実は昔は快を得る手段だった。それが習慣で目的化し、第二の天性になっただけだ、という説明です。お金の例が分かりやすい。お金は本来手段なのに、お金そのものが目的になってしまうことがある。
西田はここも認めます。そういう心理的作用は確かにある、と。
しかし、それで全部は説明できないと言います。精神は生まれながらに活動的で、本能を持っている。鶏の子が最初から籾をついばむ、鴨の子が最初から水に入る。これは習慣で後から目的化したというより、最初から備わった働きだろう、と。
そして当時の進化論の理解を援用し、本能は意識的行動が無意識化した結果ではなく、もともとの能力が生存の過程で発揮されてきたものだ、と言います。
ここで西田は、人間の心を単純な「快楽の計算器」にしないための、根拠を増やしていきます。

結論:快楽説は人間に近いが、善の命令性と客観性を立てられない

原文

 上来論じ来ったように、快楽説は合理説に比すれば一層人性の自然に近づきたる者であるが、この説に由れば善悪の判別は単に苦楽の感情に由りて定めらるることとなり、正確なる客観的標準を与うることができず、且つ道徳的善の命令的要素を説明することはできない。しかのみならず、快楽を以て人生の唯一の目的となすのは未だ真に人性自然の事実に合ったものといわれない。我々は決して快楽に由りて満足することはできない。もし単に快楽のみを目的とする人があったならばかえって人性に悖もとった人である。

解説
西田は最後に、快楽説の位置づけを冷静に決めます。
快楽説は合理説より人間の実感に近い。痛いのは嫌、心地よいほうへ行く。これは確かに現実的です。

しかし、それだけだと二つの大問題が残る。
1つ目は客観的標準の不足です。苦楽は揺れます。人によっても場面によっても変わる。そこから善悪を決めると、揺れる物差しで家を建てるようになってしまう。
2つ目は命令性の説明ができないことです。「善をせねばならぬ」という強い響きが、快楽の好みだけから出てくるのか。快楽の計算は助言にはなっても、義務の声になりにくい。
そして根本として、人は快楽だけでは満足しない。快楽だけを目的にする人がいたら、むしろ人間らしさから外れる、とまで言う。

この結論は、次の議論(意志や活動、より深い人性の根拠)へ進むための踏み石になっています。