2月21日(土)に西田幾多郎記念哲学館に行ってきました。先月に続き「善の研究」読書会への参加です。この読書会は金沢大学の山本英輔教授が進行をしてくれます。西田哲学の難解な言葉をできるだけ平易でやさしく解説してくれるという親切なところが気に入っています。また各回の最後には参加者からの質問や感想などともきちんと対応してくれるところも好感が持てます。
西田幾多郎の「善の研究」を読む
2025年度寸心読書会

この読書会は、講師として金沢大学の山本英輔教授が本文を読みながら解説するというスタイルで進行をしてくれるので初学者にもわかりやすいと評判です。

本日はもう春が来たかのような陽気です。ぽかぽかと暖かい。まだ雪はところどころ残っていますが、道路の雪はまったく無くななりました。足元がよくなったこともあり、参加者も先月の倍くらいに増えてました。

今回は「善の研究:第九章 善(活動説)」
西田幾多郎『善の研究』
前回までの「倫理学の諸説」に関する読書会の様子はこれです




以下の内容は青空文庫の文章をいくつかの部分にわけて、それぞれに生成AI(今回はGemini3.1Proを使いました)で解説を入れたものです。あくまで自分の学習用ですが、ここに備忘録として残しておきます。
さて、今回の内容です。

第九章「善(活動説)」
西田幾多郎『善の研究』の読書会に向けて、第九章「善(活動説)」の解説を行います。原文を意味のまとまりごとに区切りながら説明してもらいました。
第九章 善(活動説)
已すでに善についての種々の見解を論じ且つその不充分なる点を指摘したので、自ら善の真正なる見解は如何なるものであるかが明あきらかになったと思う。我々の意志が目的とせなければならない善、即ち我々の行為の価値を定むべき規範はどこにこれを求めねばならぬか。かつて価値的判断の本を論じた所にいったように、この判断の本は是非これを意識の直接経験に求めねばならぬ。善とはただ意識の内面的要求より説明すべき者であって外より説明すべき者でない。単に事物はかくあるまたはかくして起ったということより、かくあらねばならぬということを説明することはできぬ。真理の標準もつまる所は意識の内面的必然にあって、アウグスチヌスやデカートの如き最も根本に立ち返って考えた人は皆ここより出立したように、善の根本的標準もまたここに求めねばならぬ。然るに他律的倫理学の如きは善悪の標準を外に求めようとしている。かくしては到底善の何故に為さざるべからざるかを説明することはできぬ。合理説が意識の内面的作用の一である理性より善悪の価値を定めようとするのは、他律的倫理学説に比して一歩を進めた者ということはできるが、理は意志の価値を定むべきものではない。ヘフディングが「意識は意志の活動を以て始まりまたこれを以て終る」といったように、意志は抽象的理解の作用よりも根本的事実である。後者が前者を起すのではなく、かえって前者が後者を支配するのである。然らば快楽説は如何いかん、感情と意志とは殆ど同一現象の強度の差異といってもよい位であるが、前にいったように快楽はむしろ意識の先天的要求の満足より起る者で、いわゆる衝動、本能という如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的であるといわねばならぬ。
【解説】 ここでは、善の基準をどこに求めるべきかについて語られています。
西田は、善の基準は私たちの外側にあるルール(他律)や、頭で考える理屈(合理説)、あるいは単なる快楽(快楽説)では説明できないと言います。善の本当の基準は、私たちの内側から湧き上がる要求、つまり「直接経験」に求めなければなりません。
純粋経験:考える前の“体験そのもの” (ここでは「直接経験」という言葉で表されていますが、同じ意味です)
たとえば、親や先生に「こうしなさい」と言われたからやるのではなく、「どうしてもこれをやりたい」という自分自身の内なる声にこそ、善の根っこがあるということです。頭で考えた理屈よりも、私たちの奥底にある生まれつきの欲求や本能的な要求のほうが、ずっと根本的なものなのです。
それで善は何であるかの説明は意志其者そのものの性質に求めねばならぬことは明である。意志は意識の根本的統一作用であって、直ただちにまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は他の為の活動ではなく、己おのれ自らの為の活動である。意志の価値を定むる根本は意志其者の中に求むるより外はないのである。意志活動の性質は、嚮さきに行為の性質を論じた時にいったように、その根柢には先天的要求(意識の素因)なる者があって、意識の上には目的観念として現われ、これによりて意識の統一するにあるのである。この統一が完成せられた時、即ち理想が実現せられた時我々に満足の感情を生じ、これに反した時は不満足の感情を生ずるのである。行為の価値を定むる者は一にこの意志の根本たる先天的要求にあるので、能よくこの要求即ち吾人の理想を実現し得た時にはその行為は善として賞讃せられ、これに反した時は悪として非難せられるのである。そこで善とは我々の内面的要求即ち理想の実現換言すれば意志の発展完成であるということとなる。斯かくの如き根本的理想に基づく倫理学説を活動説 energetism という。 この説はプラトー、アリストテレースに始まる。特にアリストテレースはこれに基づいて一つの倫理を組織したのである。氏に従えば人生の目的は幸福 eudaimonia である。しかしこれに達するには快楽を求むるに由るにあらずして、完全なる活動に由るのである。
【解説】 善の正体は「意志」の性質の中にあると西田は説明します。
意志:選んで動かす力
この意志の根っこには、生まれつきの要求があります。それが目的となり、その目的が達成されて自分の思いが一つにまとまったときに、私たちは満足を感じます。つまり、善とは私たちの内面的な要求や理想が実現することであり、意志が十分に発揮されて完成することなのです。これを「活動説」と呼びます。
たとえば、部活や趣味、あるいは文化祭の準備などで、自分たちで目標を立てて一生懸命に取り組み、それが達成できたときの充実感をイメージしてみてください。その「やりきった」という活動そのものが善なのです。古代ギリシャの哲学者アリストテレスも、人生の目的である幸福とは、単なる快楽ではなく、こうした完全な活動のことだと言っています。
世のいわゆる道徳家なる者は多くこの活動的方面を見逃している。義務とか法則とかいって、徒いたずらに自己の要求を抑圧し活動を束縛するのを以て善の本性と心得ている。勿論不完全なる我々はとかく活動の真意義を解せず岐路に陥る場合が多いのであるから、かかる傾向を生じたのも無理ならぬことであるが、一層大なる要求を攀援はんえんすべき者があってこそ、小なる要求を抑制する必要が起るのである、徒らに要求を抑制するのはかえって善の本性に悖もとったものである。善には命令的威厳の性質をも具えておらねばならぬが、これよりも自然的好楽というのが一層必要なる性質である。いわゆる道徳の義務とか法則とかいうのは、義務或は法則其者そのものに価値があるのではなく、かえって大なる要求に基づいて起るのである。この点より見て善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、かえってアリストテレースのいったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を充すまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。善の裏面には必ず幸福の感情を伴うの要がある。ただ快楽説のいうように意志は快楽の感情を目的とする者で、快楽が即ち善であるとはいわれない。快楽と幸福とは似て非なる者である。幸福は満足に由りて得ることができ、満足は理想的要求の実現に起るのである。孔子が「疎食そしを飯くらひ、水を飲み、肱ひじを曲げて之を枕とす、楽も亦其の中に在り」といわれたように、我々は場合に由りては苦痛の中にいてもなお幸福を保つことができるのである。真正の幸福はかえって厳粛なる理想の実現に由りて得らるべき者である。世人は往々自己の理想の実現または要求の満足などいえば利己主義または我儘わがまま主義と同一視している。しかし最も深き自己の内面的要求の声は我々に取りて大なる威力を有し、人生においてこれより厳なるものはないのである。
【解説】 世間の道徳家は、よく「自分のやりたいことを我慢すること」や「ルールを守ること」だけが善だと教えます。しかし西田は、自分の欲求をただむやみに抑えつけるのは、善の本来の姿ではないと言います。
善には、命令のような厳しさだけでなく、自然に「そうしたい」と思う楽しさが必要です。大きな理想を実現するためには、目先の小さな欲求を我慢することはありますが、それは自分の理想を実現するためであって、我慢すること自体が目的ではありません。
自分の理想を実現することは、いつでも幸福なことです。たとえば、本当にやりたい研究やスポーツに打ち込んでいるときは、たとえ徹夜の作業や厳しい練習(苦痛)があっても、心の中は充実して幸福ですよね。本当の幸福は、こうした厳しい理想を実現する過程にあります。これを単なる「わがまま」と勘違いしてはいけません。心の最も深いところからの要求に応えることには、人生で一番の重みがあるのです。
さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想という者は何から起ってくるので、善とは如何なる性質の者であるか。意志は意識の最深なる統一作用であって即ち自己其者の活動であるから、意志の原因となる本来の要求或は理想は要するに自己其者の性質より起るのである、即ち自己の力であるといってもよいのである。我々の意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においても皆その根柢には内面的統一なる者が働いているので、意識現象は凡すべてこの一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が我々のいわゆる自己であって、意志は最も能よくこの力を発表したものである。かく考えて見れば意志の発展完成は直に自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成 self-realization であるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆる entelechie が善である)。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂いいに外ならず」といった。
【解説】 では、その理想や要求はどこから来るのでしょうか。それは「自己の力」から来ると西田は言います。
私たちの心の動き、たとえば考えること、想像すること、あるいは感情や直感の根本には、すべてを一つにまとめる内面的な力が働いています。この一番深いまとめる力が、私たちの「自己」です。
そして、意志が発展して完成することは、そのまま「自己」が発展して完成することになります。つまり、最上の善とは、私たちが持っているさまざまな能力を十分に発揮し、自分らしさを丸ごと完成させること(自己の発展完成)なのです。
竹は竹として、松は松としてそれぞれの特徴を立派に発揮するように、人間が自分の生まれ持った天性を十分に発揮することが、人間にとっての善なのです。誰もが自分だけの花を咲かせることが最高の善だということです。
ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるるのである。理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂である。それで花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達するのである。善は即ち美である。たとい行為その者は大なる人性の要求から見て何らの価値なき者であっても、その行為が真にその人の天性より出でたる自然の行為であった時には一種の美感を惹ひくように、道徳上においても一種寛容の情を生ずるのである。希臘人ギリシャじんは善と美とを同一視している。この考は最も能くプラトーにおいて現われている。 また一方より見れば善の概念は実在の概念とも一致してくる。かつて論じたように、一の者の発展完成というのが凡て実在成立の根本的形式であって、精神も自然も宇宙も皆この形式において成立している。して見れば、今自己の発展完成であるという善とは自己の実在の法則に従うの謂である。即ち自己の真実在と一致するのが最上の善ということになる。そこで道徳の法則は実在の法則の中に含まるるようになり、善とは自己の実在の真性より説明ができることとなる。いわゆる価値的判断の本である内面的要求と実在の統一力とは一つであって二つあるのではない。存在と価値とを分けて考えるのは、知識の対象と情意の対象とを分つ抽象的作用よりくるので、具体的真実在においてはこの両者は元来一であるのである。乃すなわち善を求め善に遷うつるというのは、つまり自己の真を知ることとなる。合理論者が真と善とを同一にしたのも一面の真理を含んでいる。しかし抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。これらの考は希臘においてプラトーまた印度インドにおいてウパニシャッドの根本的思想であって、善に対する最深の思想であると思う(プラトーでは善の理想が実在の根本である、また中世哲学においても「すべての実在は善なり」 omne ens est bonum という句がある)。
【解説】 ここまで来ると、善は「美」と同じになってきます。
花が花としての本来の姿をパーフェクトに咲かせたときに一番美しいように、人間も自分の本性をしっかりと発揮したときに、最高の美しさに達します。つまり、善と美は同じものなのです。
さらに、善は「実在」とも重なります。ひとつのものが自分を発展させて完成させるというのは、この世界のすべてのものが成り立つ基本の形です。自分を発展させて完成させる(=善)ということは、自分が本当の自分になる(=実在と一致する)ということです。
私たちが頭で考える知識の対象と、感情や意志が求める対象を別々のものだと考えるのは、あとから頭で分けてしまったからです。
主客:見る人と見られるもの 反省:あとで言葉にして整理する
私たちが言葉で反省して主客を分ける前の、本当の現実の中では、存在(実在)と価値(善)はもともと一つです。善を求めることは、自分の本当の姿を知ることであり、それを体得することなのです。
真善美という落としどころ
真(しん)
事実や道理に合っていること、「本当であること」
例:地球は太陽の周りを回っている
善(ぜん)
人として正しいこと、道徳的によいこと
例:困っている人を助ける
美(び)
心が「よい」と感じること、調和や完成を感じること
例:美しい音楽や風景
この3つをまとめて「真善美」といいます。
古代ギリシャ以来の哲学の中心テーマです。
特に、プラトンは「善のイデア」を最高のものと考えました。
西田幾多郎のこの第9章では、真善美について言及しています。
・純粋な善は、美と一致する
・真と善も、根本では同じ働きである
つまり、善は美と同じと言い切ってますし、真と善も似たものであるという言い方をしています。そうすると、「善の研究」は「真善美」という大きな一つの概念を違う側面から表現しているのかな、と感じました。
純粋経験と真善美
西田幾多郎は「主観と客観が分かれる前の体験」を重視しました。これを純粋経験といいます。
純粋経験とは、まだ「私が見る」とか「対象がある」と分かれる前のただ一つの働きそのものです。
この根源的な働きが、
・知の面から見れば → 真
・行為の面から見れば → 善
・感情の面から見れば → 美
になる、という発想でしょう。
普通の見方なら、真・善・美は別分野です。
しかし、西田幾多郎の見方は、
「真・善・美」は一つの根源的な生命の働きの三側面
つまり、一つの光を赤・青・緑のフィルターで見るようなものでしょう。
本体は一つ
見え方が違うだけ
という考えなのでしょうね。
いろいろと学びの多い回でした。
本日は「書」の展示がありました
さて、本日の西田幾多郎記念哲学館では、いろんなイベントがありました。そのひとつが「書」の展示です。かほく市内の小学5年生が書いたものでした。

西田幾多郎博士頌徳会書道展という案内がありました。

こたつがあることで暖かさを感じますね。

本日の読書会は「善の研究」の終盤で結論めいたところでしたので、なかなかの重みを感じました。

この記事を書いた遠田幹雄は中小企業診断士です
遠田幹雄は経営コンサルティング企業の株式会社ドモドモコーポレーション代表取締役。石川県かほく市に本社があり金沢市を中心とした北陸三県を主な活動エリアとする経営コンサルタントです。
小規模事業者や中小企業を対象として、経営戦略立案とその後の実行支援、商品開発、販路拡大、マーケティング、ブランド構築等に係る総合的なコンサルティング活動を展開しています。実際にはWEBマーケティングやIT系のご依頼が多いです。
民民での直接契約を中心としていますが、商工三団体などの支援機関が主催するセミナー講師を年間数十回担当したり、支援機関の専門家派遣や中小企業基盤整備機構の経営窓口相談に対応したりもしています。
保有資格:中小企業診断士、情報処理技術者など
会社概要およびプロフィールは株式会社ドモドモコーポレーションの会社案内にて紹介していますので興味ある方はご覧ください。
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