西田幾多郎の「善の研究」哲学読書会に行ってきました。会場は西田幾多郎記念哲学館の地下ホールです。私は今年が2年めですが、この寸心読書会は随分前から継続して実施されているようです。リピート参加されている方も多いのでしょうね。
さて今回のテーマは西田幾多郎『善の研究』第三編「意志の自由」です。下調べをしてから臨みましたが、やはり難しいですね。なかなか理解が追いつきません。
西田幾多郎の「善の研究」を読む
2025年度寸心読書会
今回は「意志の自由」
西田幾多郎『善の研究』第三編 意志の自由
以下の内容は青空文庫の文章をいくつかの部分にわけて、それぞれに生成AI(ChatGPT)で解説を入れたものです。あくまで自分の学習用ですが、ここに備忘録として残しておきます。
①
【原文】
意志は心理的にいえば意識の一現象たるに過ぎないが、その本体においては実在の根本であることを論じた。今この意志が如何なる意味において自由の活動であるかを論じて見よう。意志が自由であるか、はたまた必然であるかは久しき以来学者の頭を悩ました問題である。この議論は道徳上大切であるのみならず、これに由りて意志の哲学的性質をも明にすることができるのである。
【解説】
これまで西田は「意志こそが現実そのものの核心だ」と述べてきました。ここではさらに「その意志は本当に自由なのか、それとも何かに決められているのか」という、古今東西の哲学者が取り組んできた難問を検討します。自由か必然かをはっきりさせることは、道徳だけでなく人間観の土台を決める大問題だからです。
②
【原文】
先ず我々が普通に信ずる所に由って見れば、誰も自分の意志が自由であると考えぬ者はない。自分が自分の意識について経験する所では、或範囲において或事を為すこともできればまた為さぬこともできる。即ち或範囲内においては自由であると信じている。これが為に責任、無責任、自負、後悔、賞讃、非難等の念が起ってくるのである。
【解説】
私たちはふつう「やるかやらないかは自分次第」と感じています。この“できる/できない”の感覚があるからこそ、責任を取ったり後悔したり、人をほめたり非難したりするわけです。
③
【原文】
しかしこの或範囲内ということを今少しく詳しく考えて見よう。凡て外界の事物に属する者は我々はこれを自由に支配することはできぬ。自己の身体すらもどこまでも自由に取扱うことができるとはいわれない。随意筋肉の運動は自由のようであるが、一旦病気にでもかかればこれを自由に動かすことはできぬ。自由にできるというのは単に自己の意識現象である。
【解説】
けれど“自由にできる範囲”を冷静に見直すと、外の物はもちろん、自分の身体すら絶対には操れません。筋肉も病気になれば動きません。実際に完全にコントロールできるのは、自分の「心のなかの出来事」だけだと言えます。
④
【原文】
しかし自己の意識内の現象とても、我々は新に観念を作り出す自由も持たず、また一度経験した事をいつでも呼び起す自由すらも持たない。真に自由と思われるのはただ観念結合の作用あるのみである。即ち観念を如何に分析し、如何に綜合するかが自己の自由に属するのである。勿論この場合においても観念の分析綜合には動かすべからざる先在的法則なる者があって、勝手にできるのではなく、また観念間の結合が唯一であるか、または或結合が特に強盛であった時には、我々はどうしてもこの結合に従わねばならぬのである。ただ観念成立の先在的法則の範囲内において、而も観念結合に二つ以上の途があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ、全然選択の自由を有するのである。
【解説】
心の中でも“完全な自由”は意外に狭いと西田は言います。
想像そのものをゼロから生む自由はない
思い出を好きなときに完全再生する自由もない
では何が自由かというと、**「頭の中のイメージや考えをどう組み合わせるか」**だけです。ただし、この組み合わせにも“言語や論理のルール”といった見えない法則があり、結びつきが強すぎると選択肢は一つに絞られます。法則が許し、しかも複数の結びつきが同程度の強さで競っている——そんな場面だけが私たちの“真の選択空間”なのです。
⑤
【原文】
自由意志論を主張する人は、多くこの内界経験の事実を根拠として立論するのである。右の範囲内において動機を選択決定するのは全く我々の自由に属し、我々の他に理由はない、この決定は外界の事情または内界の気質、習慣、性格より独立せる意志という一の神秘力に由るものと考えている。即ち観念の結合の外にこれを支配する一の力があると考えている。
【解説】
いわゆる“自由意志派”は、今述べた内面的な選択経験を根拠に、「意志には外界や性格とは別の“神秘的な力”が宿る」と主張します。
⑥
【原文】
これに反し、意志の必然論を主張する人は大概外界における事実の観察を本としてこれより推論するのである。宇宙の現象は一として偶然に起る者はない、極めて些細なる事柄でも、精しく研究すれば必ず相当の原因をもっている。この考は凡て学問と称するものの根本的思想であって、且つ科学の発達と共に益々この思想が確実となるのである。
【解説】
反対に“必然派”は自然科学の視点から、人間の行動も含めて世の中に偶然はなく、すべて因果律で説明できると考えます。科学が発展するほど「原因のない現象などない」という確信が強まるというわけです。
⑦
【原文】
自然現象の中にて従来神秘的と思われていたものも、一々その原因結果が明瞭となって、数学的に計算ができるようにまで進んできた。今日の所でなお原因がないなどと思われているものは我々の意志くらいである。
【解説】
かつては雷や病気も神秘でしたが、今では科学が仕組みを解いてしまいました。残る“最後の砦”が人間の意志だ、と必然派は指摘します。
⑧
【原文】
しかし意志といってもこの動かすべからざる自然の大法則の外に脱することはできまい。今日意志が自由であると思うているのは、畢竟未だ科学の発達が幼稚であって、一々この原因を説明することができぬ故である。
【解説】
必然派にとって、人が自由だと感じるのは単に「原因をまだ解明できていないだけ」。いずれ科学が進めば意志も他の自然現象と同じく説明できる、と主張します。
⑨
【原文】
しかのみならず、意志的動作も個々の場合においては、実に不規則であって一見定まった原因がないようであるが、多数の人の動作を統計的に考えて見ると案外秩序的である、決して一定の原因結果がないとは見られない。これらの考は益々我々の意志に原因があるという確信を強くし、我々の意志は凡ての自然現象と同じく、必然なる機械的因果の法則に支配せらるる者で、別に意志という一種の神秘力はないという断案に到達するのである。
【解説】
必然論者は「人の行動も大量データで見れば法則が浮かぶ」と強調します。たとえばビッグデータの時代――通勤経路やネット購買履歴を解析すると、個人の“気まぐれ”が実は高い確率で予測できる、といった研究が続々出ていますよね。西田が指摘する統計の秩序性は、現代のアルゴリズム社会そのものを先取りしています。
⑩
【原文】
さてこの二つの反対論の孰れが正当であろうか。極端なる自由意志論者は右にいったように、全く原因も理由もなく、自由に動機を決定する一の神秘的能力があるという。しかしかかる意義において意志の自由を主張するならば、そは全く誤謬である。我々が動機を決する時には、何か相当の理由がなければならぬ。たとい、これが明瞭に意識の上に現われておらぬにしても、意識下において何か原因がなければならぬ。また若しこれらの論者のいうように、何らの理由なくして全く偶然に事を決する如きことがあったならば、我々はこの時意志の自由を感じないで、かえってこれを偶然の出来事として外より働いた者と考えるのである。従ってこれに対し責任を感ずることが薄いのである。自由意志論者が内界の経験を本として議論を立つるというが、内界の経験はかえって反対の事実を証明するのである。
【解説】
西田はまず“神秘的万能スイッチ”型の自由を否定します。もし本当に理由ゼロで行動が決まったら、私たちは「それは私じゃない、たまたま起きた」と受け取り、責任も感じません。たとえばゲームのコントローラーを誰かに突然奪われキャラを動かされたら、それを自分のプレイとは呼ばないでしょう。自由を支えるのは「腑に落ちる理由」の存在だ、と西田は釘を刺します。
⑪
【原文】
次に必然論者の議論について少しく批評を下して見よう。この種の論者は自然現象が機械的必然の法則に支配せらるるから、意識現象もその通りでなければならぬというのであるが、元来この議論には意識現象と自然現象(換言すれば物体現象)とは同一であって、同一の法則に由って支配せらるべきものであるという仮定が根拠となっている。
しかしこの仮定は果して正しきものであろうか。意識現象が物体現象と同一の法則に支配せらるべきものか否かは未定の議論である。斯の如き仮定の上に立つ議論は甚だ薄弱であるといわねばならぬ。たとい今日の生理的心理学が非常に進歩して、意識現象の基礎たる脳の作用が一々物理的および化学的に説明ができたとしても、これに由りて意識現象は機械的必然法に因って支配せらるべき者であると主張することができるだろうか。
たとえば一銅像の材料たる銅は機械的必然法の支配の外に出でぬであろうが、この銅像の現わす意味はこの外に存するではないか。いわゆる精神上の意味なるものは見るべからず聞くべからず数うべからざるものであって、機械的必然法以外に超然たるものであるといわねばならぬ。
【解説】
必然派は「心も脳の分子運動で説明できる」と言いますが、西田は「物質と意味を同じものさしで測れるのか」と反論します。銅像を鑑賞するとき、私たちは“銅の原子配列”ではなく“アポロの微笑み”といった象徴性を味わいますよね。数式で表せる物理過程と、感じ取られる“意味世界”は次元が異なる――これが西田の反駁です。
⑫
【原文】
これを要するに、自由意志論者のいうような全く原因も理由もない意志はどこにもない。かくの如き偶然の意志は決して自由と感ぜられないで、かえって強迫と感ぜらるるのである。我々が或理由より働いた時即ち自己の内面的性質より働いた時、かえって自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。
しかしそのいわゆる意志の理由なる者は必然論者のいうような機械的原因ではない。我々の精神には精神活動の法則がある。精神がこの己自身の法則に従うて働いた時が真に自由であるのである。
【解説】
要点は「内なる法則」。外側(物理因果)とも、理由ゼロの偶然とも違う、“自分の人格・価値観・理想”という内的ルールに沿うとき、私たちは「これこそ私の決断だ」と感じます。たとえば芸術家が「誰に命じられたわけでもなく、しかし衝動ではなく、作品テーマに呼ばれて筆を執る」──その感覚が西田の言う自由です。
⑬
【原文】
自由には二つの意義がある。一は全く原因がない即ち偶然ということと同意義の自由であって、一は自分が外の束縛を受けない、己自らにて働く意味の自由である。即ち必然的自由の意義である。意志の自由というのは、後者における意味の自由である。
【解説】
ここで西田は“自由”を二分類します。
名称 イメージ 評価
偶然的自由 サイコロ任せ・気まぐれ ❌ 真の自由に非ず
必然的自由 **「自分という法則」**に忠実に動くこと ⭕ 本当の自由
この整理は “やりたい放題=自由” という誤解を正し、「自律こそ自由」という倫理観と重なります。
⑭
【原文】
しかしここにおいて次の如き問題が起ってくるであろう。自己の性質に従うて働くのが自由であるというならば、万物皆自己の性質に従って働かぬ者はない、水の流れるのも火の燃えるのも皆自己の性質に従うのである。然るに何故に他を必然として、独り意志のみ自由となすのであるか。
【解説】
読者の素朴なツッコミに先回りします。「川の水も ‘性質’ に従って低きへ流れてるけど、あれも自由って呼ぶの?」――西田はこの疑問を真っ向から扱います。
⑮
【原文】
いわゆる自然界においては、或一つの現象の起るのはその事情に由りて厳密に定められている。或定まった事情よりは、或定まった一の現象を生ずるのみであって、毫釐も他の可能性を許さない。自然現象は皆かくの如き盲目的必然の法則に従うて生ずるのである。
【解説】
物理現象は“分岐なし”の一本道です。条件が同じなら結果も同じ。人為的に別ルートを想像できる余白がありません。
⑯
【原文】
然るに意識現象は単に生ずるのではなくして、意識されたる現象である。即ち生ずるのみならず、生じたことを自知しているのである。而してこの知るといい意識するということは即ち他の可能性を含むということである。
我々が取ることを意識するということはその裏面に取らぬという可能性を含むというの意味である。更に詳言すれば、意識には必ず一般的性質の者がある、即ち意識は理想的要素をもっている。これでなければ意識ではない。而してこれらの性質があるということは、現実のかかる出来事の外更に他の可能性を有しているというのである。
【解説】
意識の核心は“メタ視点”――「今●●している」と気づく瞬間、私たちは同時に「△△も選べたかも」と可能性に光を当てています。行為の背後に“理想”という抽象レイヤーがあるからこそ、現実を比較し、選択肢を数え、未来を描けるのです。
⑰
【原文】
現実にして而も理想を含み、理想的にして而も現実を離れぬというのが意識の特性である。真実にいえば、意識は決して他より支配される者ではない、常に他を支配しているのである。故に我々の行為は必然の法則に由りて生じたるにせよ、我々はこれを知るが故にこの行為の中に窘束せられておらぬ。
意識の根柢たる理想の方より見れば、この現実は理想の特殊なる一例にすぎない。即ち理想が己自身を実現する一過程にすぎない。その行為は外より来たのではなく、内より出でたるのである。また斯の如く現実を理想の一例にすぎないと見るから、他にいくらも可能性を含むこととなるのである。
【解説】
“理想”は設計図、現実はその一バージョン――だから私たちは「違う形での実現」も思い描けます。ゲームで言えば“キャラメイク画面”を常に内蔵しており、プレイ中でも仕様変更を構想できるイメージです。その内発性ゆえに、外的因果に飲み込まれない“余裕”が生まれます。
⑱
【原文】
それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱しているのである。
更に進んでよくその已むを得ざる所以を自得すれば、抑圧がかえって自己の自由となる。ソクラテースを毒殺せしアゼンス人よりも、ソクラテースの方が自由の人である。パスカルも、「人は葦の如き弱き者である、しかし人は考える葦である、全世界が彼を滅さんとするも彼は彼が死することを、自知するが故に殺す者より尚し」といっている。
【解説】
自由=“好き放題”ではありません。「なぜそうせざるを得ないか」を納得し切るとき、むしろ外的圧力すら内面化され、自由感は最大化します。毒杯を仰ぐソクラテスの毅然さ、病床で文章を書き続けたパスカルの思索――彼らは状況に縛られながら、誰より“自分自身”だったわけです。
⑲
【原文】
意識の根柢たる理想的要素、換言すれば統一作用なる者は、かつて実在の編に論じたように、自然の産物ではなくして、かえって自然はこの統一に由りて成立するのである。こは実に実在の根本たる無限の力であって、これを数量的に限定することはできない。全然自然の必然的法則以外に存する者である。我々の意志はこの力の発現なるが故に自由である、自然的法則の支配は受けない。
【解説】
西田哲学のクライマックスです。宇宙そのものが“理想(統一作用)”の自己展開であって、物理世界はその一部局面にすぎない――こう見ると、人間の意志は“宇宙の創造エネルギー”のフラクタル。だからこそ“外的法則”に最終決定権を渡さず、自由の根を持つ、と結論づけます。
まとめ
偶然か機械かの二択を超え、「自己の内なる法則=理想」を自覚しそれに従うことが自由。
その理想は宇宙を支える普遍原理でもある。
したがって、私たちが“最も自分らしい”と感じるとき――それは同時に、宇宙が自己を表現する瞬間でもある、という壮大な視野が開けます。
西田 幾多郎. 善の研究 (pp.107-112). 青空文庫. Kindle 版.

この記事を書いた遠田幹雄は中小企業診断士です
遠田幹雄は経営コンサルティング企業の株式会社ドモドモコーポレーション代表取締役。石川県かほく市に本社があり金沢市を中心とした北陸三県を主な活動エリアとする経営コンサルタントです。
小規模事業者や中小企業を対象として、経営戦略立案とその後の実行支援、商品開発、販路拡大、マーケティング、ブランド構築等に係る総合的なコンサルティング活動を展開しています。実際にはWEBマーケティングやIT系のご依頼が多いです。
民民での直接契約を中心としていますが、商工三団体などの支援機関が主催するセミナー講師を年間数十回担当したり、支援機関の専門家派遣や中小企業基盤整備機構の経営窓口相談に対応したりもしています。
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